枠社会の中で生きる日本人たち The Japanese framed society

徒然日記

大学生のときに購入したiPod(150GB) の中を探っていたら、大学時代に受けた課題で書いた小論文を発見しました。留学生が受ける授業を興味本位で受講したのですが、これがなかなか面白く、日本の文化や日米文化の違いについて書かれた本をたくさん読むきっかけともなりました。

When I was sorting out the files inside of my iPod, I found a thesis I wrote when I was a university student. I think that class was for exchange students but I took it as I was interested in. The class was very interesting and it triggered me to read many books about the cultural difference between U.S. and Japan.

せっかくなので今回、ブログに載せてみることにしました。

I decided to upload it on my blog.

原文が英語なので、翻訳しました。人物や固有名詞の部分や変な書き方をしていたところについて内容を変えたところもありますが、ほぼ原文で載せています。

*English is written after Japanese.

はじめに

世界中にはたくさんの国があります。そして多くの国に自国の文化や慣習があり、それが各国を区別するための「枠」を作っているとも言えるでしょう。これはあるひとつの国に絞っても言えることです。日本でいえば地域独自の文化がそうでしょう。ただ、日本には人々の間に、目には見えないちょっと変わった「枠」があります。その枠は日本人にとって大切なものであり、さらにそれは時に言語にまで影響を及ぼしているようにも見えます。この小論文では、日本社会に存在する「枠」について、また、日本の枠社会を表現する言葉について、そして最後に、歴史と慣習の中に見られる枠社会について書いていきます。

日本社会に存在する「枠」

日本社会では自己紹介をするとき、自分がどこに「所属」しているかを言うのが一般的です。例えば、日本に長く住むアメリカ人のM先生は、日本語で自己紹介をするとき、「私は、○○大学のマイク(仮名)です。」と言うそうですが、英語でいう場合は普通、「比較文化論を教えています。」と言うそうです。日本人はいつも気付かないうちに、「何か」の一員になっていると思っているようです。

日本の会社を見てみましょう。日本では一般的に、転職は簡単なことではありません。もし新しい仕事を見つけても、前職より給与が下がってしまうこともしばしばあるようです。これはアメリカ社会ではほとんど見られないことです。日本の多くの企業にとって一番重要なのは、個人がどれくらいの能力を持っているかというより、個人がどれだけ同じ会社でどれだけ長く働くか、ということです。

会社ではありませんが、私が通っている大学もまさにこの例となりえます。まず、大学が掲げる方針の言葉のひとつに、○○○○(「大学全体がひとつの大きな家族」を表す言葉)があります。すべての学生、スタッフそして先生は大学の家族の一員とみなされるというわけです。また、大学の求人方法にも「枠」が見られます。先生方については様々な大学出身の方々がいますが、スタッフのほとんどはこの大学の卒業生です。働き始めたら大学内での異動を繰り返し、仕事を通して、大学についてより深く知る人となっていくわけです。彼らは会計士などのひとつの分野でのエキスパートになるのではなく、この「大学」のエキスパートになっていくわけです。

このように、人々は「枠」の中にいるということを意識してはいないけれども、社会が人々をある「枠」の中に所属させていて、人々はそれに心地よさを感じているように思えます。

日本のグループ社会を表現する言葉

日本人らしさを説明していると思われている、面白いジョークがあります。

ある時、北極海で救命ボートが耐えられなくなり、数名の男性に冷たい水の中に飛び込んでもらう必要がありました。そこで、キャプテンはアメリカ人には、「飛び込んだらヒーローになれるよ!」と言い、日本人には、「他の人は皆すでに飛び込んだよ!」と言いました。(永井,  2006)

日本人は周りの人がやっていることをやることには抵抗を感じず、誰もやっていないことはやりたくない人が多いようです。さらに、日本人ならほとんどの人が子供の頃に聞いたことがあるかもしれないこのスローガン「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」。これは誰かが交通安全のスローガンを考えていたときにふと思いついたものにすぎないのかもしれません。しかしながら、正しい言葉ではないと理解しながらも、この意味については共感できるという人が大勢いるかと思います。(だからこんなに有名になったのだと思います。)

また、最近、こういった言葉が流行っています。それは、KY(空気読めない)です。これは2007年に流行語大賞候補にもなりました(引用元は参照文献の欄参照)。人々は今でも使っています(2009年当時)。日本人にとって今いる場所(枠内)の空気が読めること、そしてそれに対応するふるまいをすること、はとても重要なことで、この能力を持たない人はあまり好まれません。この言葉はそれらの人々を皮肉的に表現するために生まれたものです。

歴史と慣習の中での枠社会

なぜ日本人が、枠あるいはグループの中に属していることを好むのか、という答えは、日本人の昔の生活様式の中にあると言えるでしょう。多くの人が知っているように、日本は昔から農業を営む国で、「人々は住んでいる土地に「順応」しなければいけませんでした(中野, 2005)。」つまり、人々はその場所の空気を読む必要がありました。「農業社会では、ある個人がミスを犯してしまうと、その年の収穫量にマイナスの影響を与えてしまう可能性がありました(中野)。」狩猟採集社会、すなわちアメリカ社会では、動物を狩る機会というのは常時存在しているため、今日狩れなくても明日狩ればいい、狩れるか狩れないかは自分次第、となり、他人に迷惑をかけるということは少なかったのです。農耕社会では、狩猟採集社会よりも、グループ内での「個人」という存在が重要だということがわかります。

この発想が、日本人の中に今も存在し続けているようです。そして、より小さくより強い枠が子供の頃から作られているように見えます。例えば、「アメリカの子供たちは幼いころから一人で寝ることが多いのに対し、日本の子供たちは、両親と寝ることが多い(浜口・公文, 1982)。」です。これにより子供の中に、より一層強く、家族という「枠」を植え付けることとなるでしょう。このように、日本の枠というスタイルは社会の中だけでなく、家族というレベルでも存在しているのです。そしてこの「枠」という概念は、日本文化の中でこれからも私たちの子孫に受け継がれていくことになるでしょう。

まとめ

これらの事実を調べるうちに、私は高校時代を思い出しました。他の3クラスの商業科とは違い、1クラスしかなかったビジネス科に属していた生徒は、クラスの団結力は高かったものの、他のクラスの人たちと仲良くしようという人は少なかったように思えます。私も他クラスに友人を作ろうという気持ちもなかったし、他クラスの子と話す機会があっても名前すら覚えようともしていませんでした。

「枠」というものを作るだけで、自分たちの周りにあるチャンスを逃してしまうこともあると思います。枠に属していることにはいいこともあるかもしれませんが、枠を取り除くことで見えてくる「良いモノ」もきっとあると思います。私たちは常によい方法を考え、よりよいものを作り上げていくように努力するべきだと思います。

おまけ

農耕社会と狩猟採集社会という点でもう一つ。この小論文を書くにあたって色々調べているうちに見つけたものです。(どの本で読んだかわかりません。)

簡単に言うと、農耕社会と狩猟採集社会の違いが、マイナス思考、プラス思考の文化につながっている、という話です。

あなたはあるお店でスタッフとして働いているとします。日本人の場合、お客さんが100円の物を購入するために、自分が500円を受け取ったら、100円の商品を売り500円をもらったから、500円-100円=400円の計算をする人がほとんどだと思います。

西洋の人は、お客さんが購入する100円の商品を、自分が受け取った500円と同等にするために、400円をお客さんに渡す、100円+400円=500円の計算をするそうです。

この発想には衝撃を受けたのでいまでも覚えています。そしてこれを、カナダの田舎町の可愛らしいおばあさんが営む小さなお店で雑貨の買い物をしたときに、目の当たりにしました。

購入した商品(14ドル)に対し、私は20ドル札を出しました。私の手に、15、16、17、18、19、20と数えながら6ドルのお釣りをくれました。つまり、このおばあさんは、14ドル+6ドル=20ドルの計算をしたわけです。

農耕社会はひとつの畑から、天候などの影響で今年収穫できる量をマイナスしていかないといけない。対して狩猟採集社会では、何もない状態(0)から狩った数をプラスしていく。これが、日本人にネガティブ思考な人が多い、西洋人がポジティブ思考が多い、という違いを生み出しているのだろう、ということです。

いかがでしたでしょうか。私はこういう話って面白いと思うし、とても興味深く、そして深いものだなと思います。決して枠を取り除いたほうがいい、というわけではなく、日本人のルーツというか、日本人らしさというか、それを客観的に見るというのも必要なことだと改めて思いました。特に外国に住んでいて何か壁にぶち当たったときに、それが育った環境(日本の文化)の違いだということがわかれば、場合によっては気持ちが楽になるかもしれませんし、対処法も変わるかもしれません。

そんなわけで、長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考にした本・ウェブサイト

柴垣哲夫(1989)日本文化のエトス 創元社. amazonへのリンク

永井孝尚(2006)「国民性ジョーク」,<http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2006/05/post_3a56.html> 2010年1月21日アクセス

中野裕治(2005)ジェンダー型企業社会の終焉:組織論的考察 文眞堂.

浜口 恵俊  公文 俊平(1982)日本的集団主義 有斐閣. amazonへのリンク

「流行語大賞 2007年 候補60語を発表「KY」大賞になるか!?」, <http://www.yamaguchi.net/archives/005453.html>  2010 年1月20日アクセス

Introduction

There are many countries all over the world. Almost all of them have their own cultures or customs, which could create frames to make each country more distinct. However, this could be seen in a country as well. In Japanese society, other than the cultures from each area, there seem to be many kinds of invisible frames between people, which are very important for Japanese, and influence to their language. In this paper, I will first mention about variety of frames in Japanese society, then, move on to the topic of the words expressing the Japanese group-ism, and final section will seek the framed society in the history and custom.

Variety of frames in the Japanese society

In Japanese society, it is very common to say which place where the person belongs to when he or she introduces him/herself to someone. For example, one of my school professors from America, K.M. (2009)(Only provide initials for my blog), said when he introduces himself in Japanese, he often say “I am (for example) Mike from ○○ University”, besides, in English, he usually say “I teach classes on the comparative culture.” It could say that Japanese people unconsciously feel they are always a member of something. Let’s see Japanese companies. In Japan, it seems to be difficult to change the company a person work for, and if the person can get a new job, the salary is often less than that of his/her previous job, which is rarely seen in American society. The most important thing for Japanese companies is not how much skill the one has but how long the one has worked in the same firm.

Though it is not a company, the system of ○○ University (The university I graduated from) is an exact example of this frame society of Japan. First, one of three concepts (words) of the university is a word that expresses  the university like a big family. It means that all of the students, staffs and teachers are assumed to be family members of the university. Second, the recruiting system of the university is very framed. Though
there are many teachers from many different kinds of universities, almost all of the staffs are people who have graduated the school. After starting the job, they would transfer to other department many times within the university to know more about the school. They would not be an expert of one special area like accounting, but would be an expert of the university.

Thus, though they are unconscious of being in frames, the society makes them in many
kinds of frames and people seem to feel very comfortable being in a frame.

The words expressing Japanese group-ism

There is a funny joke that is assumed to explain Japanese nationality. One day the lifesaving boat was over strength in the Arctic Sea, and so making some men to dive into the cold water for women and children, the captain said “You could be a hero!” to American and “Everyone has already dived!” to Japanese (Nagai, 2006). Japanese people seem to want to do same thing as people around do, and do not want to do the thing that no one is doing. Also, there is a funny slogan that has been popular
for children, “Aka shingo minnade watareba kowakunai”, which means “I am not scared
to cross the road even the signal is red if there are many people with me.” This
might be created by someone who was making a slogan for the road safety. Though
people know this is not proper words for it, they also could agree to the idea
of the phrase.

More interestingly, one suitable word that can express this Japanese special culture has been popular these days. KY (Kuki Yomenai), which expresses a person who cannot feel
the atmosphere, was one of the trend words in 2007, and is still popular word today (Knowledge Base Weblogs, November 16, 2007). The reason why this word was born must be that it is very important for Japanese people to be able to read the atmosphere (of the place you are in)(=inside of a frame) and adjust the correct attitude to it. People who do not have this ability are seemed not to be liked, and the word was created to make a sarcastic remark about them.

The framed society in the history and custom

The answer of the question why Japanese people like to be in frames or groups could be in the Japanese life style in old days. As many people know, Japan started farming many years ago. People needed to “adapt” the place where they lived with their fields
(Nakano, 2005), which could mean that they needed to read the atmosphere. He also mentioned that in farmer society if a person makes mistake, it could damage to the amount of their harvests, however, in contrast, in hunter society, which expresses  American society, it rarely bothers other people because the chances to get animals are always around them. In farmer society, a person seems to be much more important for a group than that of in hunter society.

This idea still remains in Japanese people, and it seems to have been making the frames smaller and stronger from their childhood. For example, Japanese children often sleep with their parents while American children sleep by themselves (Hamaguchi &
Kumon, 1982). This could make a family more framed. Thus, Japanese frame style is not only in the society but also in families, and it could say that this framed idea will still keep coming down to offspring in the Japanese culture.

Conclusion

After knowing this fact, I remembered my high school days. Being in an information data processing of business course out of three commercial major classes and a physical course, I think my classmates were very organized, but many of them were not very friendly to the people in other class. Moreover, I did not try to make friends with other classmates and not even try to remember their names when I had a chance to talk with them.

By making frames, I think we miss many kinds of chances around us. Though there are good points being in frames, there must be positive ways they can see by taking the frames out. We should always consider better ways, and try to make things much better.

References

Can “KY” get the prize of the trend words in 2007 out of 60 words nominated? (November 16, 2007). Retrieved on January 20, 2010, from   http://www.yamaguchi.net/archives/005453.html

Hamaguchi, E., & Kumon, S. (1982). Nihon teki shudan shugi (Japanese group-ism). Tokyo: Yuhikaku Publishing Co., Ltd.

Nagai, T. (2006). Kokuminsei joku (Nationality jokes). Nagai Takahisa no MM21. Retrieved on January 21, 2010, from http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2006/05/post_3a56.html

Nakano, H. (2005). The end of Gendered Business Society: Organizational View. Tokyo: Bunshindo Corp.

Shibagaki, T. (1989). Nihon bunka no etosu (The ethos of the Japanese culture). Osaka: Sogensha Inc.

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